個人事業主の手続き[起業話#6]

初めての仕事を受けると同時に、僕は「屋号」というものが必要なことに気がついた。

言うなれば、会社名だ。

適当に会社名を作って、名刺を作ればいいのかと思っていたが、ちゃんと各行政機関に申請しなければならないことを行政書士の友人に教えられて知った。

その頃の僕は法人化ということは全く頭になく、そのメリットも知らず、それ以前に当時法人化しても全くメリットがなかったので、個人事業主としての手続きとなった。

個人事業主としての手続きは、その友人にお友達価格で頼んだ。おそらく、税務署、市、県への届出等だろうと思う。

そうして、晴れて個人事業主としての活動がスタートした。

公に個人事業主登録をすることにより「自分の会社」を思いがけず手に入れ、なんだか変な気持ちだったことを覚えている。

一応、そこからは社長だ。

自分が社長と呼ばれる立ち位置になることなど、想像もしていなかったので本当に変な気持ちだった。

名刺を作るときも肩書きは「代表」だった。

取引銀行や、売り込みに来る営業マンからはすぐに「社長さん」などと呼ばれるようになった。

それまでは、「社長」と呼ばれる人と関わることもなかったし、社長は偉い人、すごい人というイメージだったが、書類手続きをすれば、簡単になれるものなのだと実感した。

裏を返せば、世の中の社長はその程度の社長がいっぱいいると言うことだ。

事実、僕も紙っぺら一枚の薄っぺらい「社長」にその時なったのだ。

確かに、悪い気はしなかった。

突然、自分がちょっと格上の人間になったような錯覚になる。

これが、「社長さん」になることの怖いところでもある。

昨日までタダの人が、いきなり肩書きがついて、勘違い野郎がポンポン生まれてもおかしくないと今でも思う。

実際、僕もある時まで勘違いをしていたと思う。

いや、確実にしていた。

とにかく僕の意識は、この個人事業主の登録をした時から確かに変わったと思う。

立場が人を成長させるとはよく言ったものだと思う。

立場は、いい方にも、悪い方にも人を変える。

今、僕は思う。

「謙虚さ」これが起業家には、本当に必要だと思う。

自分はすごい、偉い、特別だなんて勘違いを起こした時から人はおかしくなる。

人だけでなく、事業も、組織もおかしくなる。

ふと思い起こして、つらつら書いてみたが、基本は本当にここだなと今改めて思った。


個人事業主の手続き[起業話#6]
個人事業主の手続き
[起業話#6]

次へ繋がる仕事[起業話#5]

無事成約し、期待とプレッシャーの嵐を受ける[起業話#4] で精魂込めて達成した僕の初仕事。

とことん突き詰めて、自分を追い詰めて達成した仕事の報酬をもらった時は、とても誇りに感じたし、嬉しかった。

待ちに待った報酬だったが、実際には喜んでもらえたことの方が何倍にも嬉しかった。

お役に立ててよかったと心から思った。

そして、仕事をさせてもらったレストランオーナーがとっても満足してくれたので、彼は様々な友人や知人に自分のホームページを自慢してくれた。

結果、「実はうちもホームページが欲しい」「ホームページのリニューアルを考えている」といった個人事業主や中小企業の社長から、連鎖的に依頼をいただくことになったのだ。

僕は、この時から今現在まで約12年となるが、未だに「営業」というものをしたことがない。

要は、自分の事業を他人に売り込む作業をしたことが全くないのだ。

これは、仕事を与えてくれたクライアントやラジオ局の部長といった、ご縁あった皆々様のおかげだと本当に心から思う。

頂いた仕事を精魂込めて、真摯に向き合う。

絶対に手を抜かない。

ズルをしない。

期待以上のことをする。

クライアントが納得いっていない様子なら、とことん向き合う。

自分自身が納得いくまで突き詰める。

これは、僕が初めて仕事を受けてから、頑なに守ってきたことで、仕事をする上なら当たり前のことでもあると思う。

だが、この当たり前のことを確実に守った結果、営業をしなくても連鎖的にお仕事をいただくことに繋がったのだとも思う。

当時僕は身内にこう言われていた。

「依頼された仕事は絶対に断るな。すべて受けろ。駆け出しのお前に仕事を選ぶ権利なんて無い。」

だからこそ、ちょっと気が引けた仕事も勉強させて頂くつもりで全部受けた。

当初はホームページの制作のみの予定だったが、紙面デザイン、写真撮影、プロダクトデザインなど、ネットから印刷物、商品まで幅広く受けていったのだった。

いい仕事をすれば、新しい仕事が近づいてくる。

それは、まぎれもなく方程式だった。


次へ繋がる仕事[起業話#5]次へ繋がる仕事
[起業話#5]

無事成約し、期待とプレッシャーの嵐を受ける[起業話#4]

初めて仕事を受ける[起業話#3] で提示した見積もりを快諾いただき、いよいよ製作工程となった。

はじめに、どんな内容を盛り込みたいか、デザインの希望はあるか、素材写真はあるか、なければ撮るか?など様々な打ち合わせをした。

ちょうどレストランの建物も建設中だったので、設計施工担当の方にコンセプトを聞いた。

素材写真が全くなかったため、トップはFlashアニメーションで作ることになった。

また、予算がなかったため、素材となる料理写真は僕が撮った。

幸いにして(?)写真センスがあったようで、撮る写真はどれも喜ばれた。

ディレクション、コーディング、撮影、営業、一人で何役もこなした。

打ち合わせを終え、仕事場(当時は実家の屋根裏)に戻ると、そこからは何時間も部屋に篭って、食事、風呂、トイレ以外はずっとパソコンに向き合う生活となった。

ディレクション畑の僕にとって、コーディング、まして大学時代に少しかじったFlash制作は、大大大ハードル。

当時のネット上にはまだまだ情報がWEB制作に関する情報は少なったため、手探り状態で、格闘。

ニートサーファーで、寝たいだけ寝て、遊びたい時に遊んでの、自堕落な生活から一変、かつての猛烈社員だった頃、いやそれ以上の生活となった。

この初仕事を受けたことを機に、仕事のためなら、睡眠時間2、3時間、徹夜なんて当たり前になった。

とにかく、約束の期日までに最高のものを納品しなければ。

その思いでいっぱいだった。

不安とプレッシャーはあったが、楽しかった。

思うように作れない時はゲンナリしたが、絶対に諦めずに手に入った資料を調べ尽くして、作りたいと思ったものを作りあげていった。

とにかく燃えていたのだ。

そうして、なんとか理想通りのWEBを作り上げ、クライアントに納品。

結果は花丸だった。

とても喜んでもらえた。

そして、クライアントは色んな人に自慢したらしい。

そしてこれが、僕のターニングポイントだった。


無事成約し、期待とプレッシャーの嵐を受ける[起業話#4]無事成約し、期待とプレッシャーの嵐を受ける
[起業話#4]

初めて仕事を受ける[起業話#3]

【記事要約】

起業したら、本業の仕事だけではなく、それ以外の様々な業務を自分でする必要も出てきます。僕が直面したのはまず「見積り」の作成。初めての見積りづくりにまつわる話をご紹介します。

 

ラジオ局の部長おじさんのお陰で、僕は人生初、自分で仕事を直に受けることになった。

詳しくは、おさらい>前回のお話「いわゆるニート[起業話#2]

 

 

1. 初めての見積り

初めての取引先となるレストランを始めるというオーナーさんのところに一緒に連れて行ってもらって紹介してもらった。

そのレストランオーナーは、パワーとユーモアに溢れるアーティストタイプの人で、この初めての取引先となった、レストランオーナーとはその後も長くお付き合いさせてもらうこととなる。

 

ディレクションは慣れた仕事だ。

まずは世間話から始め、その後僕の経歴をラフに話し、自然な流れで5W1Hを元にヒアリングをさせてもらった。

大体、どのようなニーズがあって、どのような夢があるのかを把握し、提案のため持ち帰らせてもらうことに。

 

若干高揚した気分で自宅に戻り、そこで、はたと気がついた。

提案書とは別に「見積もり」というものが必要なことに。

会社努めの頃は、上司が算出した工数を元に、営業担当が見積もりをしていた(と思われる)。

しかし、その業務に僕はノータッチで、今まで見積書と言うものを作ったことも見たこともない。

僕は困った。

見積書のフォーマットは、ネットでいくらでも落ちていたので、それを元に作ればよかったのだが、肝心の価格の出し方が皆目検討つかなかったのだ。

そこで、僕はだいたいの勘で20万円と見積書に記載した。

WEBサイトの制作費用はまさにピンきり。

3万円と打ち出している会社もあれば、数百万、時には数千万規模のWEBサイト制作もある。

だが、今回は簡単なWEB制作だったので、おそらく20万円程度だろうと考え、そう記したのだった。

しかし、後々振り返ってみると、これが大誤算で、起業してからある程度経験を積んだ今、計算すると、最低でも50万は値段を付けるべきものだった(倍以上違う!)。

まあ、初めていただいた仕事だったし、胸を貸して頂いて、報酬以上の仕事をしたということにしておこう。

 

2. 要点を押さえれば怖くない!見積り雛形

起業して初めて見積りを作り、それをクライアントに出すときは誰でも緊張する。

僕もそうだった。

だけど、見積書も要点を抑えれば怖くない。

僕は制作の仕事を3年前に卒業し、現在は手を動かす仕事は一切していないが、それまでは下記フォーマットの見積もりで困ることはなかった。

概算見積書雛形(フォーマットはWEB制作の場合のもの)

<EXCEL版>「概算見積書雛形

<PDF版>「概算見積書雛形見積入力例

上記フォーマットに、足りないものは追加し、いらないものは削除すれば、十分に使用可能なはず。

僕はこれを、行政や一般企業、さらには上場企業相手にも使ってきたので何ら問題は無いと思う。

よく「こうあるべきだ!」なんて情報があるけれども、正直そんな細かいところに時間をかけてキチキチに動くよりは、生産的な仕事に時間をかけて成果を上げるほうが、ビジネスマンは大事だと僕は思う。

要はクライアントに何をどのくらいやると幾らかかるのかを分かりやすく伝えるためのツールなのだ。

 

3. 概算見積書と見積書の違い

さらに細かく言えば、暫定見積書と正式な見積書の2つが必要といったことが、業務マニュアル的な情報として掲載されていたりするが、僕の場合は、概算見積を1回提示し、追加があれば追加です。と都度追加見積もりを出すやり方を取ってきた。

概算見積書:ヒアリングを通してざっくりとした金額把握のための見積もり

(正式)見積書:スケジュールや細かい仕様調整を進めた上での最終決定価格の見積もり

 

ちなみにやらなくてよい項目が発生したりして、概算見積より低くなる可能性がある場合は、別の提案をして、見積価格より売上が低くならないようにした。

じゃないと、良いものを作ろうとすると、何だかんだ、結局見積もり以上の手間が発生しているもの。

だから、損をしないように、最初に提示した金額はしっかり頂くようにした。

だから、見積金額より請求金額が下がるということは、今まで一度もなかった。

馬鹿真面目に「この項目なくなったのでお値引きしておきますね。」よりも、「無くなった分、ここをさらに良くしするために注力しますね。」の方が、お互いにハッピーははずだ。

 

4. 見積書のキモ

見積書は基本的に下記項目を押さえておけば問題ない。

①見積書の宛名は法人の場合もちろん「御中」を付けて記載。個人の場合は「様」を付ける

②見積もり有効期間は多くの場合1ヶ月だが、自由に設定OK。税率の変更が決まっている時期などは要注意。

③会社の角印を忘れずに押す。

④見積もり項目は専門用語を使わず、クライアントにも分かりやすい言葉で記載。(その方が見積もりが通りやすい。信用にも繋がる。)

⑤備考には必ず「仕様変更及び追加案件に関してはその都度別途お見積もりさせていただきます。」と記載。ある程度の変更はやむなくとしても、さすがにこれは…という時にクライアントに打診し易い。

⑥承認者と担当者のハンコを忘れずに押す。

⑦Excelの計算式を信用しすぎない。

たまにExcelの計算式が狂っている場合がある。Excelを信用しすぎて、そのまま提出すると損をすることもあるし、見積書はいわゆる「信書」にも含まれるため、こちらの信用にも傷がつく。金額は念入りに確認すること。特に税率変更前のファイルをコピペして使用した場合など、税率が旧税率で誤ってしまうことも。(僕は一度これをして、損をした。)

 

5. 見積りを出すときは、堂々とした自分を演じよう

初めての仕事で20万円の見積もりを出す時は正直ドキドキだった。

今では「安すぎだろ!」とツッコミどころ満載だが、当時は高すぎると言われないか心配でならなかったのだ。

しかし、こちらの心配をよそに、20万円の見積もりと提案内容にご納得いただけ、無事成約となった。

その場で、OKと言われた時は、なんだか本当に嬉しかった。

社会人になってすでに何年か経っていたが、初めて自分の足で社会に立っているような気分になった。

本当に、この時僕の提案と見積もりを受け入れてくれたレストランオーナーと紹介してくれた部長おじさんには、感謝しかない。

このレストランのホームページを作る機会がなければ、その後の僕の起業人生はきっとスタートしていなかっただろう。

その後、何度も見積りを出すことがあったが、時を重ねて勉強したことは、「見積りは堂々と出せ」ということだった。

最初の僕のように、「高いって思われないかな」「断られたらどうしよう」というこちらのビクビクは相手に伝わるもので、いい仕事をするスキルを持っていても、相手に不安を与えてしまうものなのだ。

だから、見積りは「僕はプロフェッショナルです。あなたにとって最高の仕事をします。その報酬として、この金額をお願いします。」という気持ちで胸を張って堂々と出した方がいい。

お金をもらうことは悪ではない。

お金はルールだ。

約束した仕事を約束通り納めるというルールなのだ。

だから、自分は最高の仕事ができると自負しているなら、なおさら見積りは堂々と提示しよう。


初めて仕事を受ける[起業話#3]初めて仕事を受ける
[起業話#3]

いわゆるニート[起業話#2]

会社を辞めた僕はいわゆるニートになった。

毎日海へ行き、サーフィン三昧の日々だった。

しばらくぶりに戻った故郷には、友達と呼べる人間は全くいない状態だったが、このサーフィン三昧の生活のお陰で、まずは海に友達ができた。

朝起きて、波チェックをし、いい波の時は一日中ひたすらサーフィンをしたり、写真を撮ったりしていた。

そして、夜は新しくできた友達と飲みに行き、楽しい時間を過ごす。

なんて自由な生活!

この時の生活は今思い出しても、いい思い出だ。

 

しかし、一般的な常識社会から見れば、超ダメ人間といえる生活だ。

失業保険が切れ、蓄えも底が見えてきた頃、さすがにちょっと焦りが出てくる。

大抵のことはおおらかに見てくれる両親だったが「仕事探せ」オーラがビンビン出ていた。

しかし、自由きままな生活の魅力を存分に味わったことにより、再びビジネスマンの生活に戻ることが想像できなくなっていた。さらに「就職するといい波の日に自由にサーフィンができない。」という、とんでもない理由もその当時の僕の中にはとてつもなく大きかった。

どうせ就職するなら、前職と同じくらいの収入は欲しかったが、それを見込める職が地元にはなかったということもある。

一度ハローワークの面談で希望月収を聞かれ、「40万」と答えると、面談担当者は絶句し、彼の顔には「オマエ馬鹿か?」と書いてあった。

 

結局、僕が選んだのはラジオ局の夕方のバイトだった。

・日中はサーフィンをしたい。

・長時間労働はいや

・気楽で責任のない仕事をしたい

というなんともはや、経営者となった今では、信じられない理由だった。

 

しかし、このラジオ局でのバイトが僕の人生にとって大きなターニングポイントを生む。

起業人生を決定づける大きな出会いがあったのだ。

もし、ここでその出会いをしていなければ、僕は企業せずにいずれ諦めてどこかに就職し、雇用者としての人生を続けていただろう。

出会いというものは、本当に不思議だ。

それが、あるかないかで大きく変わる出会いというのが世の中にはあるのだ。

もちろん、その時はそれには全く気がつかない。

後から思い起こしてみて「もしあの時あの人に出会っていなかったら…。」と考えると、ちょっとゾッとするような、その人の存在に心から感謝してしまう出会いというのが世の中にはあるのだ。

 

僕の人生のターニングポイントとなったドラマティックな出会いの相手は、バイト先ラジオ局の部長さんだった。

「ドラマティックな出会い」というドラマティックな言葉が全く似合わないおじさんだが。

僕はまぐれで合格し、県内一の進学校に通っていたのだが、さらに前職が誰もが知る航空会社のIT関連という、傍から見ると華々しい経歴を持つ奴が何故かラジオ局の夕方のバイトをしにやってきたという、物珍しさを聞きつけ、その部長はある日、僕のところへ興味津津でやってきたのだ。

IT関係のことを色々聞かれたが、素人以上のことを訪ねてくるので、よくよく聞くと、副業でサーバ管理をやっているという。

会社的に副業やってて大丈夫なのかと心のなかで突っ込みながらも、ちょっと飛んだその面白い部長おじさんとは気が合い、それからというもの、よく飲みに連れて行ってもらうようになった。

そしてある日、その部長おじさんが、僕にある依頼をしてきたのだ。

それは、知り合いがレストランをやり始めるから、そのホームページを作って欲しいというものだった。

僕は迷った。

確かにWEB関係の仕事をしてきたが、僕がやってきたのは開発者との調整をするディレクションで、実際にコーディング等の制作業務をしてきたわけじゃなかったからだ。

制作に関しての知識は全くないわけではなかったが、僕ひとりでそれを作りきれるか、悩ましかったのだ。

 

だが、僕は最終的にその仕事を受けることを決めた。

なんとなく、僕の本能のようなものが、やるべきだと言っていたのかもしれない。

そしてこれが、僕の起業人生初の仕事となるのだった。


いわゆるニート[起業話#2]いわゆるニート
[起業話#2]

起業するつもりなんてなかった。[起業話#1]

なぜこんなことになったのか、今でもよく分からない。

僕はなぜ起業したのだろうか。

いや、いつの間にか起業してしまったのだろうか。

僕は、いわゆる「起業」をしてから、2017年で14年が経過し、個人事業で4年、法人化してからは10年の月日が経ったことになる。

どうしてこんな風に書くのかというと、僕自身、「起業」なんて全くするつもりなかったからだ。

だけれども、気がついたらいつの間にか起業してしまっていた。

 

事の成り行きはこうだ。

大学を卒業して東京で就職した航空会社のWEB事業部。

ここの物語も話せば長いが、端折って話そう。

そこは、今で言う超ブラックな勤務体系の会社だった。

深夜まで働いて、仮眠程度の睡眠とシャワーのために一旦家に戻り、また出勤の繰り返しの日々だった。

新入社員も中堅も関係なく、とにかく人と時間が足りなくて、毎日が張りつめた時間の連続。

そんな折、大きなプロジェクトが発足したが、そのプロジェクトの予算を偉い上司がネコババしていることが発覚。

やつのデスクトップの背景はベンツだった。きっと、ネコババした金で買うつもりだったのだろう。

それを知った当時の同僚が言ったセリフが「俺たちアリンコかよ!」だった。

薄給で長時間セコセコ働く僕たちは確かにそんな感じだった。

でも、チクるのは怖かった。

チクってバレたら、とにかく性格の悪いそいつに嫌がらせされるのが目に見えていたからだ。

(そいつの嫌がらせは人を恐怖で身動きできないようにするような最悪なものだった。)

でも、事実を知っているみんなは許せていなかった。

そして、うまい具合に信頼できる上司に話した人がいた。

ざまあみろなことに、ネコババ上司は、表向き自主退社、実質懲戒免職になった。

チクった人最高!

だが、それはとてつもなく長い戦いで、余計な神経がすり減る戦場だった。

解決したころには、退職者が続出していた。

僕も仕事内容は好きだったが、上司たちの政治争いに嫌気が差し、いつの間にかそこで働くことがバカバカしくなってしまっていた。

そして、大好きな仕事だったが、辞めることにした。

とにかく、疲れていた。

 

当時の僕は、次の仕事が決まっていたわけでもなかったが、なぜだか特に焦ってはいなかった。

おそらく、疲れていたのだ。

普通の世の中から、一歩距離を置きたかったのかもしれない。

遊ぶ暇もなかったのが幸いして少しの貯蓄があったし、しかも、退社前に野蛮な生活が災いして、緊急入院したため、退職理由が病気となり、失業保険もすぐに出た。

そこで、とりあえず実家に帰ることにした。

その時は、いずれまた頃合いをみて、東京で仕事を見つけて、東京に戻るつもりだった。

しかし、久方ぶりに帰った実家のご飯は美味しかった。

掃除も洗濯も自分一人でしなくていい実家は、居心地が良すぎた。

そして、東京に舞い戻るタイミングを確実に無くした。

 

これが奇しくも、起業人生が始まるきっかけだったのだ。


起業するつもりなんてなかった。[起業話#1]
起業するつもりなんてなかった。
[起業話#1]