借金2500万円[V字回復下り坂#11]

オフィスを閉じ、1人で出直すことを決めた時、僕には負債が2500万円以上あった。

出資者から個人的に借りた分が約1000万円。

銀行からの借り入れが約1200万円。

個人のカードローンで借りたものが約200万円。

その他、リースなどで合計2,500万円以上の負債があったのだ。

ほんの数年前までは、濡れ手に泡で稼いでいたのが、いつのまにかほんの短い期間にこんなにも金銭状況が変わっていた。

人間の感覚が狂うというのは、本当に怖いと思う。

これを今から、1人で返さなければならない。

正直気が遠くなった。

僕は1年近くまともに給料をとっていなかったから、会社運営のために、社員の給料のためにこれらの負債をつくってきたようなものだった。

恨めしい気持ちはあったが、社長は僕だ。

何をどう言っても僕が作った結果だった。

原因はすべて僕だった。

 

とはいえ、1サラリーマンだったら、30年ほどのローンで返済していくような金額だ。

とても不安だったが、やるしかない。

僕は、ひとりになってからも相も変わらず働きまくった。

途方もない負債については、家族にも誰にも相談しなかった。

言ったところで、不安がらせるだけだ。

僕は腹をくくった。

3年で負債を0にすることにした。

先に結末を話すと、結果的には4年ちょっとかかってこれらを0にできた。

そして、文字通り無借金経営にもちこんだのだ。

自分で言うのも何だが、V字回復をやってのけたのだ。

そして今は、無理せず、自分のペースで楽しく毎日を過ごす生活に持ち込めた。

ただ、その道程は簡単ではなかった。

V字の下り坂を下り初めて、底辺を味わい、再びV時の坂道を登っている間は、本当に辛かった。

だけども、その道程で色んなことを学んだ。

それらは、お金を払っても学べないことだと思う。

億単位など僕以上の負債を僕よりも短い期間で返済し巻き返している経営者もたくさんいる。

本当にスゴイと思う。

僕がV字の下り坂と上り坂で学んだことは、もしかしたら誰かの役にたつかもしれない。

それらをまた少しずつ紹介できたらと思う。

そして、僕がV字の上り坂を登りきれたのは、側で支えてくれた家族や友達のおかげだ。

いつも心の中で思わず手を合わせて感謝してしまうほどだ。

ありがとう。


借金2500万円[V字回復下り坂#11]借金2500万円
[V字回復下り坂#11]

社員を解雇して、オフィスをたたむ[V字回復下り坂#10]

自身の病気、入院、手術を経て、あっけなく人生が終わる可能性を実感した。

その後、一緒に仕事をしてきた仲間が亡くなった。

その前からも、その後も、業績もキャッシュ・フローも相変わらず厳しい状況が続いていた。

僕の中は常に焦燥感でいっぱいだった。

なんとか打開するために、僕は相も変わらず、セミナーや勉強会、マネジメントや財務、自己啓発の書籍を読み漁っていた。

今では、経営者とスタッフのモチベーションや能力、役割が異なることは百も承知だが、当時は、

「僕に出来てなぜみんなにできないんだ。」

「みんなのためにこれだけ僕が身を削って頑張っているのに、なんでみんな、もっと頑張ってくれないんだ」

という思いでいっぱいだった。

社員教育の重要性も知り、接遇、朝礼、モチベーションアップなど世の中に溢れている、人材育成のための手法を多く取り入れたが、これらは長く毎日続けて意味がある。

もちろんすぐには結果はでない。

付け焼き刃の社員教育は全く効果がなかった。

どれだけ言っても遅刻を繰り返すヤスオに僕は、腹が立ってしかたがなかった。

さらに、この頃、僕はすでに厳しいキャッシュ・フローのため、自分の給料をとっていなかった。

 

みんなの給料のため、会社存続のために寝ずに休みもなく働いている状態だった。

自分の給料を取っていない時点で経営は破綻していると言ってもいい。

僕は、みんなのためにこんなに頑張っているのにどうしてと考え、おそらくみんなは、うまく会社をまわせない社長の低い能力に辟易していたと思う。

僕とスタッフの溝は徐々に広がっていたのだと思う。

 

当然のことだが、経営がうまくいかないのは、すべて社長が原因だ。

言葉では理解していたつもりだが、僕は本質をわかっていなかったのだと思う。

 

業績の悪化で、出資者も資金繰りが厳しい状態となっていた。

そのため、追加の借り入れはもうできないという状況になっていた。

銀行もこれ以上は貸せないと言う。

法人化して3年目の年が明けた時、完全に八方塞がりとなった。

この頃、取引先の支払いだけでなく、給料の支払いを遅らせてしまうことが発生した。

これは、会社を経営する上では絶対にやってはいけないことだ。

だが、心のどこかで、僕がこれだけ必死にやっているのを見ているスタッフはきっと一緒の気持ちで一心同体で頑張ってくれていると思っていた。

だが、現実は違った。

スタッフは、顧問の社労士に給料の遅れを相談し、労働基準局へ相談した方がいいかといったことを話していたのだ。

僕は、社労士からその話を受けて、かなりショックを受けた。

結局、一心同体ではなかったのだ。

この時、この話をしたわけではないが、父親から言われたことがある。

「おまえが社員を思うほど、社員はお前のことを思っていないぞ。」

この言葉は、僕の中にザクリと入ってきた。

 

僕は資金繰りが心配で、眠れない日が続いていた。

眠れないのではなく、仕事をこなすために2,3時間寝て仕事をするという日が続いていたのだ。

休みももちろんなかった。

そしてある朝、目を開けて決めた。

社員を全員解雇して、1人でやり直すということを。

 

僕は、みんなを集めて、決めたことを話した。

知っての通り、会社が厳しいことを。

自分の能力不足で大変申し訳無いということを。

皆を解雇して、自分ひとりで立て直すことを。

頭を下げて謝った。

 

みんなは、僕を攻めるでもなく、怒るでもなく、複雑な表情だった。

 

僕は、経営者として最大の失敗経験をしたのだ。

「なんでこんなに頑張っているのに」と思っていた僕は完全に経営者じゃなかった。

うまく行かなかったのは、すべて僕のせい。

原因はすべて自分にある。

 

それは忘れもしない2011年のことだった。

スタッフは2月いっぱいで解雇の形をとり、3月にオフィスを閉じて、4月からは家賃がかからない自宅を仕事場にすることにした。

3月に入り、だだっ広いオフィスで、ひとりで片付けをした。

気持ちもカラダもボロボロだった。

机に突っ伏していると、ひどいめまいを感じた。

しかし、それは、めまいではなかった。

遥か遠い東北で発生した東北大震災の余波だった。

 

世の中がぐるりと変わる。

僕は自分を通しても世情を通しても、それを実感していた。

 


社員を解雇して、オフィスをたたむ[V字回復下り坂#10]社員を解雇して、オフィスをたたむ
[V字回復下り坂#10]

心が凍る出来事[V字回復下り坂#9]

僕が退院してからしばらくして、カズコさんから久しぶりに退院許可が出たという嬉しそうな連絡が来た。

経過がよい方向に向かったのかと思ったが、実際には、1週間ほどして直ぐにまた病院に戻り、その後手術をする必要があるということだった。

その頃、カズコさんは古いVHSをデジタルデータに変換する方法や昔の写真をデジタル化する方法を教えてほしいと時折連絡をくれていた。

また、スタッフの1人が結婚式を挙げる予定をしていたが、カズコさんは自分の手術の話や病気の話は、おめでたい結婚式が終わるまで伏せていて欲しいと言っていた。

カズコさんには旦那さんと2人の子供がいた。

一時帰宅の間に、家族と近場に遊びに行って、一緒に過ごす時間を楽しむと嬉しそうだった。

その後、スタッフの結婚式も終わり、カズコさんが再び入院した頃、僕はキャッシュ・フローとの戦いのため、変わらず、怒涛の日々を過ごしていた。

御見舞に行かなければと思いつつ、忙しさにかまけて足が遠のいていた。

そんな折、カズコさんの旦那さんから連絡が入った。

手術を終えたのだが、経過がよくないので一度会いに来て欲しいというのだ。

嫌な予感がした。

胸がぎゅっと縮まるような感触だ。

僕は急いで病院に向かった。

カズコさんはいつもいた3階ではなく、最上階の末期がん患者のフロアにいた。

病室に入る前に、旦那さんが待っていた。

旦那さんは、落ち着いた口調で、癌が脳に転移し、脳の手術をしたが、意識はあるものの意志の疎通が難しいことを教えてくれた。

僕は緊張した。

緊張して、カズコさんのベッドに向かった。

すると、そこには、これまで見たこともないほど衰弱した彼女の姿があった。

これまで抗がん剤治療のためウィッグをつけていたが、脳の手術の時に髪の毛を全部剃ったのだろう。

頭は包帯で覆われていた。

意識はあるものの、視線が虚ろで、言葉もはっきり話せない状態だった。

旦那さんに促されて僕は声をかけた。

「御見舞に来ましたよ。早く良くなるように頑張りましょうね。」

その言葉にカズコさんは何度も「はい」と答えてくれた。

僕はそれ以上の事が何も言えなかった。

 

その後、オフィスに戻り、旦那さんとも相談の上、スタッフのみんなにカズコさんの状況を伝えた。

カズコさんの意向で、スタッフの結婚式が終わるまで、カズコさんの病気のことは伝えないで欲しいと言われていたこと。

僕以外の御見舞は遠慮したいと言われていたこと。

そして、今現在とても厳しい病状であること。

すでに意志の疎通も難しいこと。

みんな、神妙な顔で言葉が出てこない様子だった。

 

それからまもなくのことだった。

旦那さんから今、息をひきとったと連絡があった。

僕はすぐに病院に向かった。

そして、自宅に移送される前のカズコさんに少しだけ会うことができた。

彼女はとても安らかな顔をしていた。

その日の夜、僕は何も考えられなかった。

月夜に浮かんだ流れる雲をただただ眺めていた。

翌朝目が冷めた時も、僕は現実を現実だと受け止めることができなかった。

混乱して、涙が溢れて、抑えることができなかった。

 

通夜、葬儀とスタッフ全員で出席した。

葬儀が終わっても、スタッフはなかなかその場を立ち去ろうとしなかった。

僕は、悲しすぎて、こう思った。

『心が凍る』ってこういうことなんだと。

悲しすぎて心が凍ってしまう。

そんな感覚だった。

 

起業して、苦しいこと、辛いこと、悲しいことが山ほどあった。

だけれども、今でもそう思う。

このことが後にも先にも一番辛いことだった。

一緒に過ごしてきた、一緒に戦ってきた仲間を失うということが、これほどにまで辛いとは思わなかった。

 

今でも忘れはしない。

それは、秋の彼岸の出来事だった。


心が凍る出来事[V字回復下り坂#9]心が凍る出来事
[V字回復下り坂#9]

予想だにしない展開[V字回復下り坂#8]

銀行や出資者からの借り入れでなんとか会社が回っていた頃、予想だにしない事が起きた。

いつもと変わらない朝。

朝礼で健康診断の結果通知を各自に渡し、その後、各自席につき、業務を始めた。

僕も自分の健康診断の封筒を開けた。

みんな、体重が増えたとか、お酒の飲み過ぎでΓGTPが高かったとか、和気あいあいとしている中、僕は頭が真っ白になっていた。

僕の検査結果に、前癌の可能性がある結果が出たため、要精密検査と書かれていたのだ。

僕は直ぐにネットで情報を検索した。

初めて見る言葉ばかりだった。

当時僕は32歳で、まさか、自分に癌の可能性が出てくるなんて想像もしたことがなかった。

完全に僕はパニックになっていた。

そして、スタッフには銀行に行ってくると行って、すぐに病院に向かった。

 

病院では、すぐに結果は出ない。

正式な結果が出るまで1週間ほどかかった。

結果、健康診断と変わらない結果だった。

癌ではないが、ステージとしては、癌と診断される一歩前のギリギリのステージだった。

医師からは、経過観察をするか、手術して切除するか、微妙なところだと告げられた。

手術の有無は本人の意思で決めたいということだ。

僕は、ほとんど迷わなかった。

悪いところを切除することを選んだのだ。

とても不安だった。

不安しかなかったといってもいい。

仕事も変わらず続けなければ行けない中、忙しさと不安で僕は混乱していた。

そして、この間、僕はカズコさんのことをよく考えた。

彼女は今、実際に癌と戦っている。

なんて、大変で孤独な思いだっただろうと、心が痛んだ。

もしかしたら、僕も彼女と同じ道程をたどるかもしれない。と覚悟もした。

そして、手術日が決まった夏、スタッフには経営者の研修会に行くと、また嘘をついて一週間、県外に出ていることにした。

そして、その間に手術を受けた。

幸いにして、入院期間は短くて済んだのだ。

しかし、一つ問題が。

僕はカズコさんと同じ病院に入院していた。

もし、鉢合わせしてしまったら、彼女はきっと、とても心配する。

だから、病院には、病室の前に名前を付けず、個室を取ってもらい、自室から出ないようにした。

 

入院している間、僕は考えたこともなかったことをたくさん考えた。

医師からは手術をして、もし癌になっている細胞が見つかった場合は、癌のための治療が必要になる場合もあると言われていた。

もしかしたら、あと数ヶ月、数年の命になるかもしれないとも考えた。

いつか人間は死ぬが、こんなに早く、予想だにしない死の足音を聞くとは夢にも思わなかった。

僕は腹をくくった。

とにかく、今を真剣に精一杯生きようと思ったのだ。

そう腹をくくると、「今」の一秒すらも惜しかった。

時間が、とにかく貴重に思えて仕方なかった。

 

その後、手術は無事終わった。

病理検査の結果も、問題なしだった。

この時は、本当に胸をなでおろした。

僕は退院し、何事もなかったかのように会社に出社した。

そして、「今」一秒の貴重さを身をもって実感した僕は、前にも増して猛烈に働くようになっていた。


予想だにしない展開[V字回復下り坂#8]予想だにしない展開
[V字回復下り坂#8]

不穏な足音[V字回復下り坂#7]

危機の足音が聞こえ始めると同時に、もう一つ不穏な足音が同時に聞こえ始めた。

危機の足音[起業話#21]

法人化してまもなく、事務のカズコさんが入院することになったのだ。

聞くと、以前かかった病気の経過観察の結果がよくなかったとのことだ。

退院期間がどのくらいになるのか、少し見えなかったが、その時は3ヶ月ほどで退院できた。

しかし、それから2年立たない内に、再び入院する必要が出たというのだ。

今回も、退院の見通しは入院の時点では分からないとのことだった。

彼女はとても真面目で、仕事熱心だった。

経理を見てもらっていたから、財務の内情も把握している。

会社のキャッシュ・フローが厳しいことも承知していた。

だからこそ、人を1人雇い続ける大変さも分かっていたと思う。

彼女は最初、退院の見通しが立たないから、一旦退社すると言ってきた。

しかし、そうなると彼女自身、健康保険や年金が大変になる。

彼女は、これまで会社のためにとても尽力してくれた、病気だから迷惑をかけたくないから退社すると言われて、「はい分かりました。」とは、とても言えなかった。

だから僕は「迷惑じゃないから。早く元気になって戻ってきて欲しい。」

それまでの、健康保険や年金なんて微々たるものだから、とにかく今は治療に専念して欲しいと告げた。

これは、今でも良い選択であり、懸命な判断だったと思っている。

カズコさんは、たくさんの感謝の言葉を僕にくれた。

僕にとっては、大切な仲間が大変な時に一緒に支え合うのは、当たり前なのだから、そんな感謝の言葉は言ってくれるなという想いだった。

 

だが、カズコさんの病気の経過は思わしくなかった。

中々退院の許可が降りない。

寝る暇もなかった僕は、御見舞にいけたのはせいぜい1ヶ月に1度程度だった。

メールでのやりとりを続ける中、ある日、カズコさんから病状について深刻な内容が送られてきた。

もしかしたらとは思っていたが、やはり彼女は癌だった。

完治は難しいかもしれないとのことだった。

自分の会社のために一生懸命、一緒に働いてきてくれた仲間が病気で苦しんでいるという現実はとても辛かった。

毎日、家族よりと同じくらい、もしくはそれ以上の時間を一緒に過ごしている仕事仲間が、病気で苦しんでいるということは本人が一番つらいと思うが、共に働いてきた人間にとっても、本当に辛い。

他のスタッフもカズコさんの入院が長引いていることをとても気にしていた。

だが、彼女本人の希望もあり、本当のことは伝えられずにいた。

僕のデスクの斜め前にあったカズコさんの空いた席。

一緒に働く仲間のにこやかな笑顔に支えられていたことを、僕は痛感していた。


不穏な足音[V字回復下り坂#7]不穏な足音
[V字回復下り坂#7]

危機の足音[V字回復下り坂#6]

ゆでガエル[起業話#20]で書いたように、僕の会社の経営危機は企業5年目、法人化3年目にやってきた。

ゆでガエル[起業話#20]

危機の予兆の一番最初は何だったか忘れてしまったが、とにかくその時は、忙しかったにも関わらず、まずは利益が出なくなってきていた。

原因のひとつは、労力がかかる割に安い仕事ばかりが入ってきていたことだ。

僕の会社はそのころ、デザインにも定評をもらい、WEB制作の仕事だけでなく、印刷物やプロダクトデザインの仕事も受けるようになっていた。

会社としてそれらの仕事を受けるのであれば、当時出していた見積もりの5倍以上は提示するべきだったと、今は思う。

その5倍増しの見積もりを出して、NOなら、その仕事は取らない。

そういったスタンスを取るべきだったのだ。

しかし、僕は個人事業主当時の感覚が抜けていなかった。

印刷物のデータ制作やプロダクトデザインはとにかく、打ち合わせの時間も制作の時間もかかる。

しかし、利益はWEB制作の10分の1程度だ。

「依頼された仕事は断らない。」

起業当初の信念は、法人化し、社員を抱え、経営責任を抱えた時点で考えを見直すべきだったのだ。

当然、格安でいいものを作ってくれるのならと、それらの利益を生まない依頼は増えるばかりだった。

そうした中、危機の訪れと共に、良くない輩も近寄ってきていた。

制作物を納品したにも関わらず、支払いをしない取引先が発生したのだ。

最初は、支払いが遅れる程度だった。

しかし、徐々にその支払遅れの期間が伸び、最終的には連絡がつかなくなった。

要は、夜逃げだ。

契約書を結んでいようが、こういった場合はどうしようもなかった。

結局、僕たちはやり損で、こういったことが重なり、キャッシュ・フローの雲域は徐々に怪しくなっていった。

さらに、タイミングが悪いことにリーマン・ショックが発生した。

経営は外的要因に左右されてはいけない。

そんな教科書にのっている言葉は百も承知だったが、影響を直ぐに受けたわけではなかったが、確実にその波は僕達の業界にも押し寄せていた。

支払いが滞る企業が1つや2つじゃなくなったのだ。

しかも、かなり高額のWEB制作を請け負った取引先が、最終クライアントからの入金がないから支払いができないという、とんでもない理由で支払いをしてこなかったのだ。

さすがにこの頃には、キャッシュ・フローが行き詰まっていた。

そして、この頃から、法人化の際に出資者に、資金繰り悪化のため、いくらか貸付をしてほしいとお願いするようになった。

さらに、僕は、借金をしない主義だったが、運転資金確保のために銀行からの借り入れも申し込んだ。

これまで、無借金で前期までが黒字決算だったため、幸いにして、銀行はどこもすんなり貸してくれた。

それは、それで助かったのだが、他からの借り入れは後々、とても苦労することになる。

僕は、売上を上げるためにとにかく必死に、次の一手を考え続けた。

ここで、僕はとるべき行動を間違えていた。

売上を上げるために、僕は経営、マネジメント、自己啓発に関する書籍を読んだり、セミナーや勉強会に参加したりしたのだ。

一生懸命。何かしらのヒントを求めてだ。

当然、それらに費やす時間と投資は、売上を産まない。

そして、更なる悪循環を生んでいった。


危機の足音[V字回復下り坂#6]危機の足音
[V字回復下り坂#6]

ゆでガエル[V字回復下り坂#5]

法人2期目を経て、業績は増収増益の黒字だった。

「人脈と不義理[起業話#19]」で書いたように、僕は完全に自信過多だった。

人脈と不義理[起業話#19]

3期目に入り、正社員4人になった時点で、ほころびが出始めていたことに全く気がついていなかった。

根拠のない自信で覆い尽くされていたのだ。

ビジネスをしていて、この「根拠のない自信」ほど怖いものはない。

とにかくうまく行くだろう。行かないわけがない。失敗するはずがない。という根拠のない自信で僕は人材マネジメントも経費コントロールも知らずに、我が道を進んでした。

しかも、この頃は金銭感覚がおかしくなっていた。

月収数十万のサラリーマンの感覚を超えたことがなかった僕が、月にかなりの額のお金を稼ぎ、動かすようになったことで、お金の感覚がくるってしまっていたのだ。

イメージとしては、10,000円を使う感覚が1,000円、はたまた100円を使うような感覚になっていたのだ。

車を買ったり、夜遊びで散財したり、服やカバンなどは値札を見ずに買っていた。

「使ってもすぐに稼げる」そんな考えがあった。

結果的に僕は、ジワジワと窮地に追い詰められていることに気が付かず、危機を到来を迎えてしまう。

危機とは、大きくお金と人の2つだ。

売上が変わらない、もしくは下がっている月がほどんどにも関わらず、先のビジネス戦略をまったく考えていなかった。

社員は、自分と同じモチベーションで働いてくれているとばかり思っていた。

ある時、その2つの危機は飽和状態になる。

そして、同時期に爆発するのだ。

僕が色んな企業や経営者と接してきて思うのは、危機はすべて同時進行で動き、ある時同時に爆発することによって、その組織は崩壊へと動き出す。

そして、多くの人はその危機に驚くほど鈍感だ。

経営者でさえ、鈍感なのだから、社員が気づくことなんて、確率的にはより少ない。

仮に、できる社員がそれに気がついたところで、彼らがそれほどその組織に愛着をもっていなければ、さっさと転職してしまう。

 

危機は必ず何らかの予兆を表現しながら近づいてくる。

つまりは、なんらかのシグナルがあるのだ。

経営者がどれだけ、そのシグナルに気づくことができるかがカギだ。

図に乗った経営者がそのシグナルに気がつけるかどうか、そこが運命の分かれ道になる。

僕の場合のシグナルの一つは、「変な人間が近づいてきた」ということだった。

金使いが荒くなると、当然、カネ目当てに目を光らせている、いわゆる詐欺師な人間が近づいてくるくるのだ。

それだけではない。

その当時を振り返ってみて、「あの人はちょっと無かったな。」と思う人は、どういう人かというと、そんな詐欺師的人間だけじゃない。

不思議なことだが、

・約束を守らない

・金を払わない

・うそばかりつく

そんな人間が、不思議と寄ってきていたのだ。

そんな人間との波乱万丈な日々は追って書きたいと思うが、とにかく、何か事がおかしな方向に向かっている時は、不思議なことだが、僕の場合は、こんなちょっとおかしな人が寄ってきていたのだ。

これは、今思えば、危機へ向かっているというシグナルだったと思う。

経営者はこの「シグナル」を感じる感性が必要だと僕は考える。


ゆでガエル[V字回復下り坂#5]ゆでガエル
[V字回復下り坂#5]

人脈と不義理[V字回復下り坂#4]

その頃、僕は自信過多になっていたと思う。

売り上げを年々伸ばして、社員も4人雇って、オフィスも構えて、名も売れてきて、自信が存分についてきていた。

確かによくやっていたとは思うが、そんなのは今思えば序の口だ。

だが、周りからも若手なのにすごいだとか、憧れてくれる年下の人間が増えて来ると、どうやら勘違いをしてしまったらしい。

当然、起業当初は謙虚の塊のようだったのに、謙虚さが完全に抜けていた。

今、一番後悔していることは、当時お世話になった方に不義理といえる行為をしていたことだ。

もちろん悪気はなかったのだが。

毎日毎日、たくさんの人と出会い人脈ができていた。

本来であれば、途中を繋いでくれた人や、紹介してくれた人に、

「○○さんのおかげで…」とか、

「○○さんのご紹介で知り合った、あの方と…」など、

何か事が進んだ時や、あたらしく依頼をいただいた時は、筋を通したり、お礼を伝えるべきだ。

だが、僕はそれを怠っていた。

仕事を取れたり、新しい繋がりを生かすことができているのは、自分の能力のように勘違いしていたのだ。

一度先輩から、それを遠回しに咎められた時に、僕は反発的な言動と態度をとってしまった。

今思えば、それが恥ずかしくてしょうがないし、その時の先輩に大変申し訳ないと思う。

たくさん、痛い思いをして、起業して10年以上経った、今になってみれば、謙虚さと感謝が何よりも大事なことが痛いほど分かる。

だが、若気の至りとは言え、僕はそういう人間になってしまっていた。

ここが起業してからのターニングポイントのひとつだと思う。

少し、成長できた時に、変わらず謙虚さと感謝の気持ちを持ち続けられるか。

簡単なことにも思えるし、口で言うのはたやすいが、実際は多くの人間がここで間違った方向に言っているように思う。

ここでしっかり、謙虚さと感謝を持ち合わせていられるかが、起業後、成長し続けられるかのターニングポイントと言っても過言では無いと思う。


人脈と不義理[V字回復下り坂#4]人脈と不義理
[V字回復下り坂#4]

思いがけない人員増加[V字回復下り坂#3]

法人化し、オフィスを構えてからは、とにかく仕事をしまくった。

夜の付き合いも、誘われれば、断ることなく顔を出した。

とにかく忙しい日が続き、数時間アルバイトのヤスオと、正社員事務の知世さんだけでは、人手が足らなくなっていた。

そんな折り、知人からデザインや制作の仕事をしたいと言っている人がいると、一人の若者を紹介された。

面談してみたところ、人柄も素直で、やる気もあったので、新しく雇うことにした。

もちろん、正社員としてだ。

その頃は、とにかく仕事が溢れていた。

入ってくるものもでかいが、出ていくものもでかいことに僕はまだ気がついていなかった。

しばらくしてから、知り合いの職業訓練を行なっている会社から職業訓練生のインターン生を見て欲しいと依頼を受けた。

忙しい最中、一度は断ったが、知り合いから頼み込まれ、2人受け入れることにした。

実際に仕事をしてもらったのは、10日間ほど。

インターンの最後になって、そのうちの一人がうちで働きたいと言っていると知り合いから申し出があった。

忙しくはあったが、人ではギリギリ足りている状態。

正直、その時は新しいスタッフは必要なかったが、東京とは異なり、地方都市の町では、デザインやWEB制作をしたいと思っても、まだまだ働き口が充実していなかった。

僕としては、先に一緒に仕事をしているヤスオが正社員になって、勤務時間を伸ばしてもらう方がありがたかったが、彼にその話をしても、性格なのだろうか。

いつまでたってもそうなるつもりはないようだった。

夢を持っている若者を受け入れて、彼らのやりたい仕事に熱中できる環境を提供してあげたいという気持ちもあった。

結局、僕はその子を正社員として、受け入れることにした。

期待をかけて、育てれば、期待に答えてくれるだろうと思った。

入社したばかりのスタッフは、ほとんど素人だ。

とにかく、それからは、自発的に向上心を持って、学んで、仕事をしながら体で覚えてもらうしかなかった。

新しい二人は若いからだろうか。徐々に成長していった。

すると、ヤスオは何を感じたのだろうか。

先に入っている自分に近づく、もしくは追い越す勢いで成長している若手に焦る気持ちがあったのだろうか。

それまで続けていたアルバイトの一つを辞めて、自分も正社員になりたいと言い出したのだ。

彼を無下にすることもできず、結局、正社員は4人となった。

マンパワーが充実した分、コストは想定以上に膨れ上がった。

だが、いい仕事をこなしまくれば、まだまだ伸びることができると僕は思っていた。


思いがけない人員増加[V字回復下り坂#3]思いがけない人員増加
[V字回復下り坂#3]

オフィスを設立[V字回復下り坂#2]

株式化すると同時にアパートの一室の事務所から、「オフィス」へと引っ越した。

正直僕としては、これまでどおり、アパートの一室の事務所で十分だったのだが、出資者から、事務所の「見た目」も大事ということで、オフィス物件への引っ越しを進められたのだ。

更に、引っ越すだけでなく、内装を入れ、WEB制作事務所らしくオシャレに、家具も内装に合わせて調達した。

これも出資者からのアドバイスだった。

結局、コストは300万円以上かかった。

正直、出資金がこれで全部飛んだくらいだ。

その他に、株式登記のために20万円、行政書士や税理士に支払う金額が10万円以上など、とにかくお金がかかった。

しかし、そのコストをかけた分のリターンがあると、その時は考えたのだ。

実際、若手でりっぱなオフィスを構えたことで、口コミの知名度は少し上がったと思う。

これまでは、来客があっても、アパートの空いている畳の部屋で、ちゃぶ台での打ち合わせだったが、きちんとミーティングルームも、さらに応接室も準備した。

そして、当初1人だったスタッフは、引っ越しの頃には2人になっていた。

事務スタッフが必要だったのだ。

スタッフを雇う [起業話#11]

そのため、引っ越し当初は僕を含めて3人だったが、いずれまた人が増えるだろうということで、5人分のデスクをオリジナルで制作した。

ドアを開けてすぐに、エントランスを儲け、オリジナルのデスク5人分に、デスクに合わせた椅子。

壁紙も床材もすべてオリジナル。

デザインに合わせた収納棚、打ち合わせスペースのテーブルと椅子もオリジナル。応接室のソファーもテーブルも何もかもがオリジナルだった。

お金がかかるわけだ…。

だが、デザインもしていた僕は、自分の世界観で作り上げた空間にとても満足していた。

自分の世界観満載の空間で、仕事に打ち込める。

それが幸せだったのだ。

起業してから3年立たないうちに、ここまで成長できたことに、大分自信をもつことができた。

なかなかできないことだということを周りからよく言われた。

この時から、僕はさらに仕事人間になった。

そして、この頃にはすでにサーフィンからは遠のいていた。

オフィスが街中になったため、海からも離れてしまった。

仕事が生きがいになっていた。

仕事さえしていれば、自分は正しいことをしていると思っていた。

これが、良いことなのか、悪いことなのか、という話ではないが、着実に変化をしていたのだ。


オフィスを設立[V字回復下り坂#2]オフィスを設立
[V字回復下り坂#2]