自身の病気、入院、手術を経て、あっけなく人生が終わる可能性を実感した。
その後、一緒に仕事をしてきた仲間が亡くなった。
その前からも、その後も、業績もキャッシュ・フローも相変わらず厳しい状況が続いていた。
僕の中は常に焦燥感でいっぱいだった。
なんとか打開するために、僕は相も変わらず、セミナーや勉強会、マネジメントや財務、自己啓発の書籍を読み漁っていた。
今では、経営者とスタッフのモチベーションや能力、役割が異なることは百も承知だが、当時は、
「僕に出来てなぜみんなにできないんだ。」
「みんなのためにこれだけ僕が身を削って頑張っているのに、なんでみんな、もっと頑張ってくれないんだ」
という思いでいっぱいだった。
社員教育の重要性も知り、接遇、朝礼、モチベーションアップなど世の中に溢れている、人材育成のための手法を多く取り入れたが、これらは長く毎日続けて意味がある。
もちろんすぐには結果はでない。
付け焼き刃の社員教育は全く効果がなかった。
どれだけ言っても遅刻を繰り返すヤスオに僕は、腹が立ってしかたがなかった。
さらに、この頃、僕はすでに厳しいキャッシュ・フローのため、自分の給料をとっていなかった。
みんなの給料のため、会社存続のために寝ずに休みもなく働いている状態だった。
自分の給料を取っていない時点で経営は破綻していると言ってもいい。
僕は、みんなのためにこんなに頑張っているのにどうしてと考え、おそらくみんなは、うまく会社をまわせない社長の低い能力に辟易していたと思う。
僕とスタッフの溝は徐々に広がっていたのだと思う。
当然のことだが、経営がうまくいかないのは、すべて社長が原因だ。
言葉では理解していたつもりだが、僕は本質をわかっていなかったのだと思う。
業績の悪化で、出資者も資金繰りが厳しい状態となっていた。
そのため、追加の借り入れはもうできないという状況になっていた。
銀行もこれ以上は貸せないと言う。
法人化して3年目の年が明けた時、完全に八方塞がりとなった。
この頃、取引先の支払いだけでなく、給料の支払いを遅らせてしまうことが発生した。
これは、会社を経営する上では絶対にやってはいけないことだ。
だが、心のどこかで、僕がこれだけ必死にやっているのを見ているスタッフはきっと一緒の気持ちで一心同体で頑張ってくれていると思っていた。
だが、現実は違った。
スタッフは、顧問の社労士に給料の遅れを相談し、労働基準局へ相談した方がいいかといったことを話していたのだ。
僕は、社労士からその話を受けて、かなりショックを受けた。
結局、一心同体ではなかったのだ。
この時、この話をしたわけではないが、父親から言われたことがある。
「おまえが社員を思うほど、社員はお前のことを思っていないぞ。」
この言葉は、僕の中にザクリと入ってきた。
僕は資金繰りが心配で、眠れない日が続いていた。
眠れないのではなく、仕事をこなすために2,3時間寝て仕事をするという日が続いていたのだ。
休みももちろんなかった。
そしてある朝、目を開けて決めた。
社員を全員解雇して、1人でやり直すということを。
僕は、みんなを集めて、決めたことを話した。
知っての通り、会社が厳しいことを。
自分の能力不足で大変申し訳無いということを。
皆を解雇して、自分ひとりで立て直すことを。
頭を下げて謝った。
みんなは、僕を攻めるでもなく、怒るでもなく、複雑な表情だった。
僕は、経営者として最大の失敗経験をしたのだ。
「なんでこんなに頑張っているのに」と思っていた僕は完全に経営者じゃなかった。
うまく行かなかったのは、すべて僕のせい。
原因はすべて自分にある。
それは忘れもしない2011年のことだった。
スタッフは2月いっぱいで解雇の形をとり、3月にオフィスを閉じて、4月からは家賃がかからない自宅を仕事場にすることにした。
3月に入り、だだっ広いオフィスで、ひとりで片付けをした。
気持ちもカラダもボロボロだった。
机に突っ伏していると、ひどいめまいを感じた。
しかし、それは、めまいではなかった。
遥か遠い東北で発生した東北大震災の余波だった。
世の中がぐるりと変わる。
僕は自分を通しても世情を通しても、それを実感していた。